北海道現代史 資料編1(政治・行政)
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関係になったのに、また変な政権ができておかしくなったら困るから」と言って。今思えばよくあんなことをやったなと思います。北海道の漁業者は皆、分かっているから、組合長は正しかった。あの頃は交流も活発になっていたから、ロシア語の通訳も何人かいました。北海道に来たロシア人は、平成元年に八七〇人、その四年後には四、六〇〇人になりました。船舶も平成元年には三七八隻だったのが、四年後には三、二八一隻に。これだけ、わっと増えたのです。外務省がどういう受け止めかはよく分からないですけれども、交流するのはいいことだと思ったのではないでしょうか。もともと国の方は、交付税の算定基準では北方領土を北海道の領土として計算していますし、返還を想定していた時期はありました。ロシア側も、二島の引き渡しに横路 はOKした時があるのですから。駄目だと蹴飛ばして、チャンスを逃してしまいましたね。領土面積で半分にしようというのは、谷内さんが外務省の事務次官の時に考えたのですが、それによると択捉を分割するような三・五島という感じです。今の状況では、それは難しいでしょうね。イヌ政策特別委員会の事務局長をやっていて、萱野茂さん、貝澤正さん、若くして亡くなった結城庄司さんといった人たちと長く付き合ってきました。アイヌ民族の歴史や文化にも触れていましたし、豊川重雄さんというエカシとの付き合いもありました。最初の選挙の時にも、横路 アイヌの問題は、私が社会党の代議士の時に、ア―外務省は、ビザなし交流をどう受け止めていたのでしょうか。また、近い将来北方領土が返ってきて、北海道に帰属するかもしれないと考えていたのでしょうか。―一九八三年の選挙公約の中でアイヌ新法制定について言及され、八八年には「ウタリ問題懇話会最終報告書」をまとめるなど、かなり早くからアイヌ民族の課題に取り組まれていましたが、なぜアイヌ政策に当初から関心が高かったのでしょうか。 第10章 証言でたどる北海道の政治・行政1082

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