一九九三(平成五)年七月の衆院選の結果、自民党は結党以来初めて下野したものの、後継の細川護熙内閣が政治改革関連四法案(小選挙区比例代表並立制、政党交付金など)を成立させた後、九四年六月には自民党・社会党・新党さきがけ(自社さ)連立による村山富市内閣を発足させて政権に復帰した。この村山内閣期に五十嵐広三官房長官を中心に着手され、第二次橋本龍太郎内閣が一九九七年五月に成立させたのがアイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統に関する知識の普及及び啓発に関する法律(アイヌ文化振興法)である。この立法はその点、五五年体制下で激しく対立していた社会党と自民党の協調の産物でもあった。資料40は、北海道旧土人保護法改正に積極的だった自民党の閣僚亀井静香に対し、アイヌ民族で参議院議員の萱野茂が「百万人の味方」と期待を託しているさまを後援会ニュースが報じたものである。資料41は、萱野の政策秘書だった滝口亘の手元に残された、与党内の協議に関する議事録のメモを収録している。北海道開発庁出身で北海道選出の自民党衆院議員・金田英行が、先住権問題等でのウタリ協会からの要請の高まりにくぎをさしていること、また、同じ北海道の社会党衆院議員・金田誠一らは、そうした文化的争点よりウタリ対策事業のような経済的争点を重視していることは興味深い。資料42の年賀状が示すような誇りをにじませつつ萱野を政治の舞台に押しあげた滝口だが、その回想(資料43)では萱野への不満も吐露されている。すなわち、萱野が他の道社会党の国会議員と同じく一九九六年に民主党に移籍したまでは良かったものの、九八年の参院選に向けた擁立への同意を萱野が結局撤回し、五十嵐広三官房長官も顔色を変えたとのエピソードが残されている。今回掲載しなかったものの、会長ポストをめぐるウタリ協会の内紛と相まって、萱野に対する鈴木宗男の個人的な影響力が強まっていったという滝口の観察も、また印象深い。自社さ政権の成立とアイヌ文化振興法第四節 冷戦終結後の政党再編と北海道解 説185 (1)
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