北海道現代史 資料編1(政治・行政)
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利用の養鰻がそれであり、リハビリ経営もその事業のひとつであつた。この事件の経緯は、当時宗教法人立正佼成会が、信者の錬成道場建設を鹿部に決め、鹿部村もそれを歓迎し援助しようとしたが、何分にも公共団体が直接宗教団体を援助することは、憲法においても禁じられているところ、そこで村は、村と立正佼成会を構成員とする財団法人を作り、この財団が立正佼成会の企図する事業に援助することを考え出したのである。こうした意味の財団設立も問題ではあるが、仲々の知恵であつた。そして辣腕家の村長は、間もなく財団を牛耳り、財団を独り歩きさせはじめたのである。昭和四十六年夏、村長はこの財団による身体障碍者リ遭     ハビリセンターの建設を考えた。そして建設会社に工事を発注したが、財団による工事代金の手当がつかない。ために建築工事は途中一旦中止となつた。そこで村長は工事を再開させるために、村議会にも諮らずに、財団が工事代金を払わないときは、村が代つて支払いする旨の確約書を、村長名と村長公印を以て建設会社に渡したのである。これにより工事は進み、やがて鹿部の丘に三階建二百床のリハビリ施設延五八七〇平方米の建物が、四億九千万円の工事費で完成したのである。しかし相変らず財団の工事代金支払は滞り、財団や村長に掛合つても支払の要領を得ない。そこで建設会社は最后の手段として、村長を相手として工事代金支払請求の訴訟を起した。そしてこの裁判の大事な時期が、丁度村長の改選期に重なり、対抗馬が出ることもあつて、裁判に対応して適切な手を打つ暇もない。このため支払請求訴訟のとおり判決されてしまつた。村長選は激戦ののち対抗馬が当選した。そして新村長就任間もなく、即ち昭和四十八年八月執行差押のうきめに会()つたのである。この問題の結末は、道民生部長に中川利若氏が就任し、中村〔(啓一〕副知事の要請により、新たに社会福祉法人を設け、脳卒中後遺症のリハビリ施設に活用する構想を〈中略〉編者注)第2章 国内・道内政治②236

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