社共労の三党提携が困難だったことが資料24から分かる。同資料が伝えるように、対外的のみならず対内的にも候補者調整で激しい対立が生じうる不安定な状況を踏まえ、横路が党内ガバナンスの強化(党「再建」)に乗り出した経緯がうかがえるのが資料25である。これに対し、四九年衆院選で躍進したライバル・共産党側の「細胞打合会議」の様子を、資料26が克明に描いている。この資料で警戒されているような、「反共団体」(国鉄反共連盟)に内部情報が漏れていたがゆえに、共産党北海道委員会による多様な党勢拡張戦略を今日知ることができるのである。一九五二(昭和二七)年四月二八日、七年に及ぶ占領が終結して日本は独立を回復し、これに伴う「経済自立」の要請を前に北海道開発の期待も高まっていく。資料27は、北海道開発庁設置前年の一九四九年、道が各政党や経済団体の代表を招聘して開催した公聴会と、五一年の北海道開発局設置の動きへの田中知事の反対を伝える記録である。防共のコンセンサスなど、左派も加わって多様な開発の枠組みが摸索されたことが分かる。資料28は、一九五〇年から導入された北海道開発審議会(前記の総合開発審議会とは別)の保守合同期の議事録から抜粋した。当時、北海道分県論を掲げていた民主党の広川弘禅と社会党の小平忠の発言から、与党内で停滞しやすい北海道開発論議を活性化させる機運が当時超党派で生じていたことがうかがえる。田中知事もまた、第三次吉田内閣や開発庁と交渉しつつ、雨竜川鷹泊ダムなどインフラ事業の主導権を握って自由党との競争を有利に進めようとしていた構図を示すのが、資モデルであるTVA本部を初めて視察した(高橋昭夫『田中道政とその時代』北海道新聞社、一九八二年)。料29である。佐久間長次郎副知事との連携も印象深い。なお田中は一九五七年に国務省の招待で訪米し、鷹泊ダムの北海道開発と政党間の競合第三節 独立後の北海道開発と政党 (1) 第1章 国内・道内政治①42
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