吉村は「天下は自由党だけじゃない。ひとつ、眠っている年寄りどもの目を覚ましてやろう」とハッパをかける。吉村との出会いは、彼が池田町川合小の野球選手で、私の出身、柏小に挑戦してきたころからの竹馬の友で、父親も木材関係の同業者ということもあり、どっちが自宅かわからないほど行き来していた。政治生活四十年の回顧②〔(七月三日付け記事〕二十年十二月末には選挙の準備に入ったが、翌年の一月ごろになって、日本社会党の所属代議士になった渡辺惣蔵から電話があり「君は自由党公認をけられたそうじゃないか。一度札幌に来い」と、呼び出された。宿で渡辺の話を聞くと、彼の論理にはどうも引っかかるものがあった。「悲惨な戦争後の世の中を作り変えるには、物事に傾斜があってはならん。〝水平運動〟が必要だ」と説かれた。彼は根っからの社会主義者で、労働者重点の話になる。〈中略〉編者注)それも良いことだが、私の思想とは少し違っていたので、誘いを断った。その後、祖父のオイで選挙好きの中小路喜七が、進歩党公認の話を持ち込んだが、十勝からは浦幌の森三樹二(のちに社会党から出馬)や釧路の南雲正朔ら道内で「六人の公認申請が出ているので満ぱいだ」と再度断られた。選挙の告示は刻一刻と迫ってくる。そこに飛び込んで 椎熊三郎(小樽)らが無所属を糾合して北海道政治同盟きたのが一区から出馬した地崎宇三郎(札幌、先代)、を結成するのでどうか、という話だ。公認政党から見放された私だ、破れかぶれの心境で入った。さっそく政党からの誘いがあった。自由党からも。しかし、地崎、椎熊の三人で行動をともにする─と固く約束していたし、選挙中、演説の中で「進歩党も含めて体〈中略〉政治生活四十年の回顧③〔(七月四日付け記事〕編者注)第2節 占領期北海道の政党政治83
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