一九四六年前半期の労働争議の特徴は、労働組合が事業所の生産機構を掌握し生産管理を続ける生産管理闘争を取り入れたこと、大幅な賃上げ要求、職場経営の民主化の要求などにあった。一九四五年一二月に三井美唄労働組合が生産管理闘争に入って以後、全道各地の炭鉱などに波及した。資料3には戦後、道内で活発に労働運動を展開していた炭鉱労働者の道内炭鉱での労働争議が記されており、いかに労働争議が展開されていたかが分かる。このうち一九四六年二月から始まった三菱美唄炭鉱労働組合の生産管理闘争では、「人民裁判事件」が発生し、これは当時の「革命的雰囲気」を伝える。資料4は北海道炭鉱労働組合連合会の機関紙の一部で、三菱美唄炭鉱労働組合の労働争議の支援を強く呼びかけている。同労組は「民主々義、自由主義」を唱える課長の更迭反対などを要求しており、戦後の社会情勢をうかがわせるものである。一九四七年二月に決行が予定されていた「二・一ゼネスト」に対し、道内では全国労働組合北海道地方共同闘争委員会が呼応した。しかし、直前にマッカーサーによる中止命令が出され、ゼネストは中止となった。資料5はこのゼネスト中止に対する国鉄北海道労働組合発行の新聞記事であり、動員数から労働組合の成長を確認しつつ、ストが孤立した原因に言及している。二・一ゼネスト以降、官公労組の労働運動を大きく制限する政令二〇一号(一九四八年七月発令)が出されるなど占領軍の労働政策が転換する中で発生したのが、狩勝トンネル争議である。一九四八年四月に、道国労旭川支部が根室本線狩勝トンネル通過時の労働改善を求め、トンネルの改築や手当増額などを要求し、同年五月に列車の三割減車の実力行使に突入した。資料6は同支部が作成したビラであり、根室本線の難所とされていた狩勝トンネルの劣悪な環境や列車数整理による安全性確保を訴えている。その後六月には新得機関区分会執行委員長が自殺し、これに対し労働運動の展開994 (2) 第10章 労働運動
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