塚久、伝法敬彥、竹花茂雄、伊藤照作等であつた。これらの人々は、有力な先山等に働きかけ、約四十名の同意を得て、結成準備委員会を組織した。そこで具体的に結成の段階に入るに際し、大島常次郎、伝法敬彥、信夫仁作等が上札して、当時札幌に居た木下源悟()に指導を要請した。(その頃日本社会党北海道支部は渡辺惣藏宅にあつた)〔(原文ママ〕日本社会党北海道支部 島親藏等の援助のもとに、「組合を作るにはどうするか」「どの様に運営するか」について具体的な指導を受けた。かうして発起人、準備委員も一応組合運営の知識を深め、賛同者も相当多くなつてきたので、昭和二十年十月六日夜大島宅に集り、正式に「三井芦別従業員組合」の名称をもつて、次の役員を決定、発足をみるに至つた。役 顧 問 木下源悟()、渡辺惣藏、寺木下源吾編者注)員 対 吾吾約 〃 鈴木源重執行委員長 大島常次郎副執行委員長 平野義美〃 伝法敬彥書 記 長 信夫仁作 外執行委員 評議員 規 当時はまだ規約は作られていなかつたのであるが、組合加入の手続きは、名簿に記名捺印で、組合費は一ケ月五拾銭であつた。組合員数 約四〇〇名組合の運動方針は執行委員が大島委員長宅に集合して意見を出し合つて決めたが、此の場合、執行委員長の権限は絶体()的なものであつた。此の組合の当初の問題となつたものは、食糧問題、これに関連する配給所の在庫公開要求、賃金問題、労働条件等であつた。十九名十六名1002第10章 労働運動(1) (3) (2)
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