であり、一九五三年までで六千戸近くに達している。一九四五年は東京、大阪などの都市被災者の入植(拓北農兵隊)が多く三千戸近くであるが、以降は山形県など「満蒙開拓団」を輩出した県の割合が高く、戦後開拓政策が収束する一九七三年時点での定着率を見ても高い。「満洲」からの引揚者がJターンのかたちで北海道の戦後開拓地に入植したのである。資料2①は「満洲開拓の父」と言われる加藤完治が国民高等学校の前身である県立自治講習所の所長であった山形県(移民数で長野県に次ぐ二位)の四つの新聞記事である。一九四六年から四七年にかけての「北海道開拓」の動向を拾ったものである。山形からの入植者の拠点の一つである十勝管内西足寄村(現足寄町)への南村山郡柏倉門田村開拓団(足寄町柏倉地区)と庄内開拓事業組合(足寄町庄内地区)の入植の動向、釧路標茶地区での弥栄開拓団を中心とした一大畜産開拓団開設などが記されている。資料2②は、後者の釧路管内標茶町弥栄地区に入植した「満洲」の第一次武装移民、弥栄村の団長中村孝二郎による日記『根釧地区開発記録』の冒頭に置かれている入植に至る経過のメモである。一九四六年の一一月から一二月にかけて「大集団入植適地調査」が行われて、根釧地区の旧軍馬補充部川上支部への入植計画が立てられ、「第二の弥栄村」への入植に至る動きが示されている。農地改革は、以上の戦後開拓用地の買収を含め大規模に実施され、戦後自作農体制が構築された。農地の買収・売渡面積は三四万町(ヘクタール)、売渡小作人は一二万戸を上回り、このほかに牧野の売渡面積が一八万町(ヘクタール)にのぼった(一九五二年までの実績)。戦後開拓用地として売り渡された面積は三三万町(ヘクタール)、入植者は三万一千戸、増反農家が六千戸であった(一九五四年までの実績)。これに関する資料のうち、農地改革一〇周年を記念して北海道農業会議の雑誌『北方農業』一九五五年九月号に掲載された記事を二つ収録した。資料3は実施から一〇年を経た段階で、農地改革の成果、その影響、所有者意識と土地の生産性の各項目についてまとめられたも農地改革とその成果・限界152第2章 農業 (2)
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