達)。しかし連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)はこれを承認せず、政府の通知を受けた道庁は一九四八年一月に給与地も買収の対象になるとした(一月二九日付け農地部長通達)。資料6③はその結果を受けて買収を進めようとする動きの例である。 『北海道農地改革史』(北海道、一九五七年)によれば、一九五一年九月の調査で約二、二三〇町歩の給与地(うち農地は約一、七一五町歩)が買収されたとする。これは一九三三年当時の給与地の二六パーセント(農地だけを見れば三四パーセント)を占めた。この結果は、アイヌ民族にとって生活基盤に対する更なる侵食となり、戦後のいわゆる民主化の下でも差別的な社会構造が継続するという厳しい認識を強めることとなった。農地改革とともに、戦後自作農体制を支えるものとして位置付けられたのが、農業協同組合(農協)である。資料7は、第二次大戦後、戦時統制機関として設立されていた北海道農業会を母体として戦後体制への農業団体の移行をリードした北海道農業復興会議による農業協同組合の組織のあり方に関する意見表明である。農協の性格としては、新しい民主的な農村に即して生産力を発展させ、農民の転落を防止するという基本的な使命が冒頭で述べられ、特に農業の生産面での事業を積極的に取り上げることが強調されている。また、農協の組織方針では、組合員たる農民、部落の協同組織、市町村段階の協同組合、農協連合会についてそれぞれ述べられている。部落の協同組織が強調されている点、農協連合会が金融事業連合会を除き総合事業農協連として構想されている点が注目される。農業協同組合の設立154第2章 農業(4)
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