るものであった。全国的には農地管理事業団構想(一九六五、六六年に国会に法案提出)の挫折の上に、農業振興法改正による「農地移動適正化あっせん事業」となって制度化されている(一九七〇年)。これは、農業委員会のあっせんに対応した農地取得に関わる資金の供給というシステムであり、北海道の施策を直接的に継承したものである。したがって、その利用も北海道が圧倒的である。「適正規模」をどうとらえるか、上層農家の規模拡大を進めるか、中小規模農家の底上げを図るかは大きな論点であったが、ここでは中小規模農家の底上げを図るとともに、隣接農家の優先という原則も見られ、農地の団地化という要素が権利移動の大きなモメントとなっている。後者の路線はのちに「北海道型農地移動システム」(盛田清秀)とも評価されている。国際化農政期の起点となるのは一九八六(昭和六一)年に開始されたガットウルグアイラウンド農業交渉であり(九三年妥結)、その後のWTO体制の発足(九五年)につながっていくのは周知のとおりである。国内的には、農林水産省が「新しい食料・農業・農村政策(新政策)」をまとめ(一九九二年)、九九年の食料・農業・農村基本法(新基本法)の制定に至る道筋がつくられる。こうした動きの中で日本の農業保護政策は動揺を続けたが、本節ではこの時期の地域農業に現れた特徴的な取組に焦点を当てた。一九八〇年代後半から九〇年代を通じて、北海道の地域農業は負債問題、農畜産物の過剰問題、世代交代に伴う農家戸数の減少といった諸問題に直面した。政策的な支援の拡充を期待できない状況下で、求められたのは地域農業の主体的な対応である。資料16は、北海道独自の農地移動対策の一つのモデルとなった士幌町の実態を示した一九六四年のルポである。第四節 国際化農政期の北海道農業159解 説
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