二%程度のものとなつた。北海道においても小作地の比率は昭和初年には内地の水準をはるかに超え、最高五八%余に達していたものが、その後徐々に自作化していたとはいえ(四二%)、これも一挙に一〇%に縮少したのである。(第一・四図〈略〉)かくして、戦前全国では農家総数の略五割を占めていた小作ないし小自作農家の大半が自作農ないし自小作農となり、彼の耕地から直接に小作料として大量の生産物が奪い去られるのを免れるにいたつた。即ち、昭和二五年には小作ないし小自作農家は概ね自作ないし自小作農家へと浮び上り、七二万戸、一二%を残すのみとなつた。北海道においても同様であつて、戦前半ばを超えたことのある小作農家が、二五年には僅かに一一%程度に減少しているのである。農地改革の第二の目標は小作関係の合理化である。即ち農地の移動統制を強化し、最高小作料額を規定して従来の物納小作料を玄米石七五円換算で金納化し、二五年まで据置きにした。そのため、その後のインフレによる米価の騰貴は、小作料の率を大層軽いものにしてしまつた。即ち、戦前内地では五割をこえた小作料が二四年には一%程度に、北海道でも四分の一をこえていたものが、同様一%程度になつてしまつたのである。ではかかる嵐のような大変動は農村の各階層にどのような変化をもたらしたであろうか。1.地 かかる嵐を前にして地主側も必死の抵抗を試みている。即ち、土地の取上、闇小作地の保有、地主団体の結成、政府に対する改革サボタージュの働きかけ、違法訴訟(財産権侵害、違憲訴訟等)、闇小作料の強要等々で、これを反映して本道においても終戦前三年間位は平均八〇件位であつた小作争議が、二一年には二、八五〇件、二二年三、三一四件、二三年三、四九七件、二四年一、一三七件と未曽有の激発を示したのである。だが、かかる過程で、一応不在地主は全小作地を買収されて小作料収取の基礎を失い、在村地主のみ残存する農地改革の影響173 主 第1節 農地改革と戦後開拓
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