ね。道農地委員会の想い出―リツクサツクで持帰る議案―G 第一期の道の農地委員の人々は……。E あの頃の人は、でてくるときにはリツクサツクに米を入れてしよつてくる。一週間なり十日なり会議にでて、帰る時には議案を代りにつめてひと背負いもつて帰つた。(笑声)D 山下さんは丹前と毛布を背負つてきてたね。A その当時の顔ぶれは……。G 議長が楠木熊太郎、目星しいのは堀川、山下、北村、水谷、郷司、田宮、市川、福島といつたところだつた。D 農民党が選んだ農地委員が地主、小作と分れていたですね。地主層からでていた人が、小作地とりあげをやつて懲罰委員(にかけられたこともあつた。G 委員の宿舎となつていた農友クラブが新善光寺の前にあつて、地主、小作がごつちやに泊つている。その連中が、前の夜打合せをして、当時の委員会を牛耳つ会脱カ)ていた。あの頃は農友クラブに陳情するのが、最も早い解決の手段だなどといはれていた。G 「それは狸の住むようなあばら屋で」という様な調子でやるもんだから、余りもめずに結論がでてしまう。H て、原稿ができていた。G しました。木が生えているのでギヨツトしました」という調子でね。C だな。H 期の頃はいつも水と薬をのみながらやつていたね。身体の悪いためだつたと思う。E えていたと思う。D 説明の上手な人に宮下特さんがいた。講談調で、宮下さんの書類にはいつも説明のしかたが研究されそれから傑作はT君で「現地に行つてみてギヨツトそれから彼は「ギヨツ」と呼ばれるようになつたん梅田さんは二期になつてから動くようになつた。一一期は地主層からでていたし、余り強力な発言を控二期からは一方の旗頭だつた。(笑声)181 第1節 農地改革と戦後開拓
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