E あの頃は意識して現地調査えもつてゆく傾向があつたのではないか。道東のものは道南えというふうに…事務局として予算をつけるのに一苦労した筈だ。E 炭鉱住宅の話ですが、農地がどんどん計画的に潰れてゆく。その対策のために委員会に小委員会ができた。ある炭鉱に行つたときのこと、会社の庶務課長と道の農地委員明智さんの間に立国論争が初)つた。工業立国だ、農業立国だというわけです。そのうちに炭鉱の訴願そのものがおかしくなつてきた。ところが、そのうちに会社はその課長を更送した。つまり農地委員に逆つてもだめだということだつたのでしよう。B 都市計画の点では、都市計画委員会にかける前の一歩前で知事が諮問する。こつちの原案を決める時、よく農地部、土木部がもめたことがありましたね。札幌、旭川、帯広などではひどかつたね。弱体だつた農業団体組織―たちおくれ、サボツた農業団体組織―A 当時は道庁の体制もやつとできた所だつたが、GH(始まQは政府の尻を叩く。そういう中で農民もそうだが、外部の団体に新らしい芽生えが幾らかあつたのではないですか。B 農だつたと思う。当時の農民同盟は地主的色彩がつよく、農民運動を押し進めるものとしては非常に力のよわいものだつた。吾々の所えしよつ中来て話合つていたのは日農だつた。それに北農の中のごく一部で、北農も全体としては地主的なものだつた。H G E ヤをとつていた。B 動を上廻つていたといえる。C かは基本理念に立つていても、実際の農地改革の推進や監視をサボツたといえるんぢやないか。当時農地改革も推進してきた農民団体は、やはり日農地改革協議会というのがあつたですね。喜多幸章氏の農地改革組合連合会というのもあつた。農地連は社会党の組織で荒さんや喜多さんがイニシ各農業団体の動きより、農地改革の進行は彼等の運私は一種のサボタージユだと思う。例えば日農なん182第2章 農業
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