北海道現代史 資料編2(産業・経済)
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篠津中央土地改良区は、石狩川流域泥炭地開発のために、根釧原野の機械開墾と同時に世界開発銀行の融資をうけて開始されたもので、その地域は一市三ヵ町村に亘り、一万ヘクタールに及ぶ泥炭地を開発して水田を造成し、また既成水田にも安定補水しようというものであった。開発事業については、北海道開発局、北海道庁、土地改良区が夫々分担して実施することになっており、水田造成に必要な石狩川からの取水のための頭首工や運河を始めとして大排水、主幹用水路等の基幹工事は一切開発局がうけ持ち、支線用水路、客土事業の如きは北海道が実施し、土地改良区は末端水田造成やこれに必要な取水施設を分担することになっていた。また、この地域には三土地改良区が含まれていたが、大部分は篠津中央土地改良区の区域に入り、しかも低位泥炭地と称する一番地味の悪い地帯であった。一九八六年篠津中央土地改良区はこの開発のために設立されたのであるが、一市三ヵ町村とは、江別市、当別町、新篠津村、月形町であった。また、この地域には、数多くの困難な問題が未解決のまま残されていた。泥炭地という条件のわるい土地柄だけに、国の工事にも試行錯誤を繰り返し、地盤もなかなか安定せず、工期が予定より大幅に遅れ、その為に農民は非常に困窮した。また、地元には水利権を有して僅かばかりの水田を耕作していたものもあり、これ等の人のうちには、その権利を主張して組合に加入しようとしなかったり、加入した者でも組合費を払わない者がおり、そのために篠津中央土地改良区は財政破綻の寸前に達していた。更に、開発地域が四ヵ市町村に亘るため、市町村毎の住民感情が異なり、全地域の一致協力が望めなかった。そのうえ、推進力となるべき筈の市町村長の意見が常に一致しなかったので、私はその中にあって気苦労が多かった。私が専務理事に就任した時は、当別町長の近藤さんが〔篠津中央土地改良区時代〕203      第2節 農業近代化の始動

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