北海道現代史 資料編2(産業・経済)
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反収一俵半ということだ。広尾はことしも凶作濃霧地帯の広尾では、ことしも凶作だということで支庁に陳情をしている。この地方は七月まで濃霧がかかり、地温が上らない。それが、九、十月に晴天が多いので、収穫期をづらし、霜にあたるというように、天気はいつもそつぽをむいている。例年八月十五日ごろ豆の花がつくのが、今年は九月五日についた。そのうえ風雨がきたので、花がくさつたというわけでガツクリきた。平年作で、二俵三分のものが大・小豆とも一俵で、二十九年、三十一年よりも作がらは思わしくないだろう、とタメ息まじりに話していた。つぎに帯広の周辺に足をむけよう。士幌町では、全耕地八千町歩のうちの約半数近くが「豆つくり」だ。それだけに、九月の雨と病害の発生で、はじめ平年作と見こんでいたのが八分作におちて、農民はいささかガツカリしたようだ。大豆で二俵二分、小豆一俵八分、菜豆二俵という数字が、九月下旬の調べででている。そこから、帯広のすぐ近くの芽室町にいく。ここは全耕地一万七千町歩のうち、約一万町歩が「豆つくり」で、約六割にあたる。ことしの作がらは八分作で、大豆二俵二分、小豆二俵五分、菜豆二俵二分となつている。これら四ヵ町村の作がらをみてもわかるように帯広周辺に近づくにしたがつて、作がらが上まわつている。ある農民が「十勝の凶作といつても、その全体が平均して受けているわけではありませんよ。ですから、豆つくりが投機的だとひと口にゆつても事情は地帯によつてちがいます」と話していたことが、うなづかれるようだ。それと、帯広の近くと、ほかの地帯では市場のむすび     わり量十四万俵であつたが、三十年の二十三万俵と売上つきが、かなり変つてくる。芽室町では昨年豆類の出まげ高は同じであつたときいた。二十九年の冷害のときは、種子用の豆もとれなかつた、という広尾とではくらべものにならない。だが、それらのことは大ざつぱに地帯別につかんだ話豆づくりをやめたい217第2節 農業近代化の始動

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