りして新しく買ったものはないよ」と、笑って話す妻は口紅さえ、ひかない。老母は野菜作り七十四歳になる母は、庭で野菜を作り始めた。ハクサイ、キャベツ、ダイコン。それまで、買っていたものばかり。「こんな年で、仕事の手伝いもできないから、せめて、野菜作りぐらいはねえ」。戦死した父親の分まで苦労した老母に、新たな苦労をかけると思うと、孝一は、自分が頑張らないと、申し訳けないと思った。四年間、家計簿はほぼ十五万円でやりくりした。家計簿とにらめっこしながらの生活で、無駄は極力抑えた。使わない電気は消す。ストーブのまきは、山から調達する。「祝儀袋の中身まで削った。本家として気が重かったが……。」そして妻は、日に十回牛舎に入った。牛と接するためだ。子供たちも、学校から帰ると、牛の世話。家族ぐるみで牛を見回った。〝対策農家〟を卒業孝一は、それまで、目分量でやっていた、えさ給与を、乳量に応じ、一頭ごと変えた。「農協の指導だった」。すると、牛は、不思議と乳を出した。五十六年、四千五百キロだった年間個体乳量は、五十九年には六千キロまでになった。努力が実りはじめた。粗収入は一千万円から、一千八百万円と約二倍まで伸びた。マイナスだった経済余剰も三百万円の黒字になる。どうにか、その年の償還金は、単年度余剰で払えるようになった。このままの経営を続ければ、貯金はできなくとも、借金は減っていく。この年、孝一は負債整理農家から卒業した。やっと家族みんなで、楽しい夕食をとれるようになっ た。「農協の指導を感謝の気持ちで受けとれる」と孝一は笑う。 「おれだけの力では、ここまでこれなかったろう。家族みんなに苦労をかけた」。今だからこそ笑って話せる。娘は、地元の病院に勤めた。酪農家に嫁に行ってもいい、235これからが挑戦第4節 国際化農政期の北海道農業
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