北海道現代史 資料編2(産業・経済)
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くしか売れず、結局一千万円近い借金を抱えた離農者もあった。多くの負債農家を抱える農協では、連鎖倒産の危機から、離農勧告すらできず、自ら貸し倒れに陥る。問題こじれ対立もこうなると、仲間であるべき、農協と負債農家、優良農家と負債農家の間に「対立」だけが目立った。ある農協の理事会では、負債農家への融資で、大もめになったところもある。優良農家が貯金を市中銀行へ乗り替えたケースもあった。五十六年に出発した、負債整理対策事業は、こうした      ―  利子補給とドッキングした経営改善計画が、経営に対す酪農民、農協の姿勢に見直しを迫るきっかけを作った。る意識を高めた。負債対策農家の所得率は、五十六年の一九%から、五十九年には二八・五%に高まり、一頭当たり乳量は、一一二%にもなった。こうした効果は、酪農家自身の意識改革によるところが大きい。道内百五十戸を超す負債農家を回って指導してきた負債対策のベテラン、北農中央会経営対策室のスタッフは、再建のかぎを、①やる気②創意工夫③計数管理を基本とした飼料給与働、やる気に力点を置く。五十九年度までに再建できた農家の多くは、口では表せない苦労を背負ってきたし、借金に対する認識を変えた。「入るを計って、いずるを制す」ことの難しさを、痛感している農家は多い。農協との信頼もできつつある。だが、負債対策農家のうち、百戸は離農していった。借金の重圧と、病気などによる不運、後継者不足が、重なったことによる。ただ、離農したからといって、取材した離農家のほとんどは、依然借金苦に悩んでいた。酪農負債整理対策事業は、再建者と離農者を区別する役割もある、と発足当時いわれた。離農者は毎年各農協で二、三戸出ている。しかし、酪農主産地を見る限り、もう、一戸の酪農家をも離農させられない地域が増えている。これ以上、離離農はさせられぬとし、特に目的を持った労243第4節 国際化農政期の北海道農業

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