6 機械化以前の伐採搬出労働―伐採性参加の「双葉林業グループ」の結成に力を入れ、川向に次ぐ二回目の全道、全国発表大会に出場させ大いに気を良くした。赴任一年後、指導事務所の統廃合がきまり初代の函館地区所長となった。渡島支庁管内の半数を占める市町村を四人で担当することになった。懇談会を開くことにし、普及資料つくりに多忙であった。顔見せ興行の市町村まわりから集会の第一歩が踏み出された。その後、私はスライドから八ミリに手を出し、八ミリで「野ソ〔(鼠〕撲滅作戦」をテーマに野ソ予察調査、解剖、ヘリ散布の状況を地上と上空から撮影し、編集後テープにバック音楽を入れ、米地指導員に解説して貰い、これを懇談会に持ちまわった。この頃では指導事務所として、また指導員としても自主性のあった時代と言える。編者注)(北海道立図書館所蔵)〈一九五〇~六〇年頃〉自分は九人家族の中で長男として生まれたから、家が炭焼きをやっていたとき、その手伝いを子供でも当たり前のようにやっていた。十七~十八歳になった頃から、自分で選んだ「山子」 て下 になった。当時としては、山で伐木する仕事が他の仕事の二倍ぐらい金になった。最初は三晃合板や松原さんに雇われ、旧日高町内富岡地区の国有林などで、年中山奥の飯場に入って伐倒の仕事をやった。山子になる 戦後初期の林業・林産業穂別・高齢者の語りを聞く会『大地を踏みしめ翁媼八十代の踰邁を語る〈中略〉富内 須合義弘続』二〇一四年282第3章 林業(3)
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