まだ若く経験が無く、太い立木を伐り倒す技術は未熟だったが、怖いもの知らずだった。見よう見まね、我流でやって、少しずつ技術を身につけ、経験を深めていった。他人は上う手まいことは言うが、本当のことは教えてくれないもの。話は鵜う呑のみにせず、技術を盗むぐらいの気持ちで頑張るしかなかった。当時の出稼ぎは、夜具は各自持参だった。造材の道具一式(鋸の五丁、サッテ二丁、トビ、クサビにヤスリ)、着替えなど、荷物はかなりの量になった。運材のために富内駅へ来ていた省営(鉄道省直営)のトラックや親方の会社のトラックに頼んで運んでもらっていた。とにかくあのころの山は、広葉樹と針葉樹の混ざったう こ んい 豊かな森林で、センやナラを主とした太い木が繁っていた。切り株に、大人七~八人が円くなってゆったり座れる木があったし、玉切り(倒した木を決められた規格に切り揃えること。雑ぞ木きなら十二尺、九尺、六尺などに、針葉樹なら主に十二尺、まれに九尺に切り揃える。良い木なら一本から十二尺もの七丁は採れた)のとき、鋸が届かないから、丸太の手前を切る者、向こう側を切る者、それがある程度進むともう一人上に乗って、切り口が締まらないよう木き矢や(くさび。イタヤの木矢は乾燥すると一番強度があった)を打ち込む者との、三人の共同作業でなければ手に負えない太い木もまだまだあったのだ。伐採作業は、山頭が、採さ面めの境界が分かるように、木の皮に目立つ印を付けてあった。採面とは、作業中に木が倒れて近くの作業人に危険が及ばないよう、各一人に割り当てられる面積で、請負伐倒に十日以上かかる広さの一反歩から五反歩ぐらいを単位に区割りすることだ。山子が請け負う場所を決めるのは、文句が出ないようくじ引きで決められることがほとんどだった。だが、太い木ばかりの採面が当たると請負では不利になったり、作業が雑になるから、そうならないよう何人かの出面扱い(日当いくらと決められる)でやる場合もたまにあった。割当たった採面内のどの木を伐っても良いのではなく、目の高さぐらいと根元に刻印が押された木以外伐っては283第1節 復興期の林業
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