北海道現代史 資料編2(産業・経済)
300/1104

べる物にはそこそこ恵まれていた方だったと思う。ただ、敗戦のどん底から立ち直るため、何をとっても我慢、辛抱が当たり前、世の中全体が貧しい時代だったから誰もが黙々と働いた。高等科卒業は今で言えば中学二年生終了の満十四歳だが、自分はその秋から馬を連れてルベシベ沢の松柳さんの飯場に入り、「ヤンチャ曳びき」の仕事に就ついた。飯場には山子や馬追など二十五人ぐらい寝泊まりしていた。板の間に断熱材代わりの笹を厚く敷き詰め、その上に夜具を敷いて寝た。自分は、布団の両端に薪まにするドンコロを載のせて、すきま風を凌しいだがそれでも寒かった。山の仕事は、木を切り倒す「山や子ご」がいて、倒した木  まぶまりや のき    どへバチバチ橇で運搬する「下曳き」などの種類に分かを馬が曳き出せる場所までトビ一丁で滑り落とす「藪や出だし人夫」や一枚板で作られた玉た橇ぞかドンコロバチ(バチバチの前半分)に丸太を乗っけて山土場(中継土場)まで運び出す「ヤンチャ曳き」、その山土場から駅土場な容たす易くこなせるようになった。れていた。自分の家で田畑を耕す農作業の手伝いをしていたから農耕馬の扱いには慣れていたが、丸太を扱うのは初めてのことだった。強い馬を持った大ベテランの盤木さんや加藤さんなどから基本的なことをいろいろ教えてもらった。そして、先輩たちのやることを横目で見て、技を盗み取り、少しずつ身に付けていった。仕事は、他ひ人とのやり方を見て工夫し、自分のものにするものだということはこのとき解ったように思う。例えば、雪に半分埋まって凍り付いた丸太を動かすことは難しいものだが、トビ一丁で動かすコツを覚えてしまえばまた、玉橇やドンコロバチにいかに丸太を上手に積むか(「荷を造る」という)が、馬を疲れさせないで量をこなす決め手になるから大事だった。自分の馬は小柄な農耕馬だったが、荷の造り方を早く身に付けたお陰で、先輩たちに運搬量では負けないぐらいになった。昭和二十九年の洞爺丸台風が上陸して、北海道一帯に286第3章 林業

元のページ  ../index.html#300

このブックを見る