北海道現代史 資料編2(産業・経済)
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ものすごい量の風倒木被害を残していった。穂別もそうだったが、支笏湖周辺の国有林の被害は甚大だった。害虫や腐食で木がダメになる前の数年間で処理しなければならず、相当の数の馬と人夫が必要になって、穂別など近隣の馬持ちに声が掛かった。そこには沢山の組や班が下請けとして集まって来たが、 自分たちは、和泉の大塚慶一さんの軍隊時代からの知人だった本山組の社長さんの所に入った。穂別から自分の外に平丘の三上さん、仁和の工藤さん、以頭さん兄弟や旭岡の木下さんなども一緒だった。昭和三十二年八月、定山渓温泉の奥の国有林へ入ったことがあった。そこは国立公園だから印の付けられた木以外は、たとえ細い木でも切ったり痛めてはならず、余分に神経を使わなければならない現場だった。一ヶ月半ぐら(で二つの山を回ったものの、あまり良い稼ぎが出来ないままそこを切り上げ、帰って来たことがあった。そのときオート三輪(貨物用三輪車)の狭い荷台に三頭の馬を積んで温泉街を走っていたとき、揺れたい脱カ)弾みで真ん中の大きな馬に押された脇の馬が道路に落ち、そのまま繁華街を走り出してしまい、ちょっとした騷ぎになったことを懐かしく思い出す。三十二年九月、道路の付いていなかった支笏湖の向こう岸の、営林署直営の現場に入った。家から遠い現場に出かけるときはいつも同じだったが、迎えのトラックに馬(普通二頭積む)と、半月分のエサや自分の作業道具(トビや手斧《節など丸太の余分な出っ張りを落とすために使う》など)と夜具など生活用品一式を積んで現場へ行く。補充のエサは母など家族が作って、後から追加で運んでもらっていた。支笏湖温泉に着くと、夏は遊覧船の発着場所になる桟橋から艀はけ船(「はしけふね」とも呼んでいた)に人馬が乗り込み、丸駒温泉の船着場で降りた。その船は、夏には遊覧船になった船だと思うが、この船が向こう岸から原木丸太を筏いだのように繫げて一度に何十本も曳いて来る仕事もやっていた。その時の飯場は、そこから少し西に行った何もない所287第1節 復興期の林業  かし    

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