北海道現代史 資料編2(産業・経済)
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だった。その艀船に初めて乗ったとき、岸から三百メートルぐらい離れたあたりの青く澄んだ水中に、大量の太い木が腐らないで立っているのを見た。支笏湖は、一万年以上も前の噴火で大地が陥没して誕生したそうだが、辺あり一帯が豊かな森林だった証明でもある。何千本否何万本有っただろうか、それを見たときの感動を忘れていない。そこの現場でのこと、仕事のきつさの割には稼ぎにならないことが分かって、馬追たちの不満が溜まってきた。 誰からとなく声を掛け合ってストライキを打ち、営林署の役人と団体交渉をやって多少改善させたことも、思い出である。不便な樽前山の陰や支笏湖畔の山奥の飯場生活だったが、楽しみは、仕事が終わった後や休みの日に、近くにあった丸駒温泉で骨休みをすることだった。沢山の馬追や人夫が集まっていたので、若い女中が七~八人もいて賑わっていた。ある年、愛馬が根曲竹の鋭い切り株で足を刺して治療が必要になったことがあった。交渉して、苫小牧に近い口無沼の現場に変えてもらい、そこから苫小牧の蹄鉄屋へ通って、馬の治療とその足裏に合わせた鉄板の補装具を作ってもらった。それを履かせて仕事は続けた。苫小牧へ定期的に治療に通った時見た苫小牧山手地区の風景は、家が、まだぽつんぽつん牧草畑の中に見えるぐらいで、王子製紙の煙突だけがやけに目立っていた。今の発展振りから想像も出来ないものだった。どこの現場でも大体同じだったが、現場での馬の仕事は、午前は七時半から十一時、それから一時間半から二時間馬を休ませて、午後は五時まで働いた。口無沼にいたとき、糸井の上流に飯場があって現場が錦岡の上流だったことがあった。陽が早く落ちるようになった秋のこと、帰りは真っ暗になっていた。目印もない原野の中の曲がりくねった道、どの辺りなのか人間には見当が付かない。馬は初めての土地でも一度歩いた道は絶対間違わないで帰れるから、任せておけば、全く心配ないものだと改めて感心した。馬はすごい習性を持っ288第3章 林業    た  

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