北海道現代史 資料編2(産業・経済)
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一 北洋再開の基本方針明治になって、日本は近代国家を建設するため、西欧文明、文化をむさぼるように吸収し、世界の強国の仲間入りをした。漁業界も技術・資本を導入して世界三大漁場の一つといわれる北洋漁場で大活躍をしたのである。しかし、その努力も太平洋戦争によって無に帰し、海外における一切の日本権益は放棄のやむなきに至った。とはいっても、北洋漁場は父祖の時代に開拓して引き継がれたもので、北海道・東北地方漁業者にとって、北洋漁場は故郷と同じであった。もちろん、みずからの代になっても北洋漁場を駆け回ったのだから、許されるならふたたび北洋へ出漁したいという執念は強かった。敗戦後の食糧難、これを救う道は日本をめぐる海の資源を国民の食膳にのせることが一番手っ取り早い。二十年八月、日本は連合軍最高司令官マッカーサーによって、公海での漁業活動を禁止され、わずか沿岸周辺のみで漁業をすることしか許されなかった。それでも食糧難救済のため、少しずつ、このマッカーサー・ラインが拡大されていった。それにしても北洋のさけ・ますを漁獲することは許されなかったのである。そこで、食糧難を解決するという理由で、出漁さえすれば、豊富なさけ・ますが北洋に回游していることを知っているだけに、農林省はG・H・Qに北洋方面の漁区拡張をなんども頼みこんだ。熊沢弘雄著『日ソ漁業』(昭和三十四年)によると、「最初はマッカーサー・ラインが東南方に拡げられた前例をみて、昭和二十一年九月にカムチャツカ東西海岸における母船式さけ・ます漁業およびトロール漁業と千島列島沖合の機船捕鯨業について懇請したが返事なし。二度目は翌二十一年五月の総括的懇請の中で、北洋における母船式漁業と南部千島および宗谷海峡における漁区拡張を頼んだが、これも返事がなく、さらに同年八月に三度目の正直をねらうかわり少し遠慮して、南部千島のクナシリ・シコタン島近海における各種漁業の許可を懇請したが、これもまたムダ玉に終った。これらは、いずれも正式文書をもって頼みこんだもので、それ以外にも機会あるたびに漁区拡張を懇請366第4章 水産業    

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