うことになったからである。つまり、昭和二五年、函館において「いかくん」がはじめて生産され、五年後の三〇年ごろには全盛期を迎えた。また、このころ「姿焼き」もはじめられ、三三年には真空包装、赤外線乾燥機が普及し、三四年には八木式いか裂き機が開発、三五年になるとソルビン酸が「さきいか」にも認められるようになったことも加えて、近代食品加工業としての量産態勢が整った。さらには、包装資材の発達もこれに貢献した。これをいか漁業との関連からみてみよう。戦前のいか 当時の沿岸水産資源が極めて豊富であったことは文献な漁業は長い間、沿岸の零細漁業として営まれてきた。生産量も少なかった。農林統計は明治時代からするめいかの統計がある。それによると、明治二七年から昭和二一年まで、少ない年は数万トン、多い年でも大正一四年の一年を除いて二〇万トンに満たない状況で終始している。どで知られている。もし、沿岸漁業者がその気になったら、いかの生産量は幾らでも上昇しただろう。だが、いか漁業が、いわしやにしん漁業のような盛況に至らなかったのは、市場性・加工応用範囲の狭さのほかに、釣りという労働生産性の低い漁法によるためであったろう。戦後に入って昭和二二年、いかの漁獲高は急激に上昇しはじめた。いか漁業がなぜ戦前の堅い壁だった二〇万トンの大台を一挙に飛び越えたのか。しかも、するめの中国輸出という強力な経済的支柱を喪失しながら……。これを一口にいうならば、戦後の食糧事情につきる。日本漁業は、戦争によって相当部分の漁船を失った。漁船の建造はGHQの許可制と、その厳重な管理下に置かれ、操業海域はいわゆるマッカーサー・ラインによって押さえられていた。このような状況下でわが国漁業は、当面、沿岸とその沖合漁場で水産食糧を生産するほか道はなかったのである。この時期、資源的に増産可能ないかが注目されたのは当然のなりゆきであった。二二年以来の漁獲上昇にも拘らず、いか漁業の形態はなおしばらく、そのままの形で続いた。しかし、二五年からはじまった以東底曳網漁業の整理、北洋漁業への転388第4章 水産業
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