換によっていか釣り漁業も大きく変わることになった。すなわち、北洋転換漁船の裏作として、いかあるいはさんま漁業が必要となり、こうしていか釣り漁業はそれまでの小型船時代から中型船時代へと移行することになり、 漁獲量は飛躍的に増えていった。しかし、このような生産増に対応する流通・消費対策 ため、いかの価格は暴落、漁業生産者はいくら獲ってもは、当時、全くなかった。いかは一時的に大量に獲れる。すると、需給のバランスが崩れる。するめ加工だけでは処理しきれない。流通量を調整しようにも、当時は冷蔵庫が不足していた。結局はするめ加工に回すしかない。たちまちするめの過剰生産となる。当時、するめの生産は漁民の手で行なわれ、これを浜仲買が買い、函館で集められ、中国方面へ輸出あるいは内需に回された。この手間賃にもならず、獲れば獲るだけ損をした。これが大漁貧乏の実態である。するめとこんぶ相場の安定を狙いとして「函館海産物取引所」が開設されたのは昭和二六年のことである。水産物にとって初の商品取引所として注目された。しかし、その後、するめの減産と北海道漁連による共販事業の台頭により、その存在価値が薄らぎ、四七年に閉鎖した。戦後のいか漁業の発展は、その初期においてマイナスの作用があったが、プラス面も多かった。豊富ないかを前浜での漁業者によるするめ加工だけでは間に合わないし、原始的製法では製品の品質にもムラが生じる。付加価値も低い。こういう難点をカバーするため、専門の加工業が時代の要請を受けて台頭しはじめ、その専門的視野からの技術革新・企業化・合理化が促進される下地となり、今日の近代的ないか加工業の基盤が形成されるとともに、わが国の漁業に占めるいか漁業の経済的価値も飛躍的に向上することになった。しかし、何といっても、いかのもつ独特の味がキメ手であったことはいうまでもない。生で刺身にしてよし、煮てよし、焼いてよし、さらに加工原料によしの多面ぶりは他の魚族の追随を許さない。しかも、栄養価は抜群である。戦後間もなくの飢えたる時代にあっては食べる389第2節 高度経済成長期における生産力発展
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