また、テレビの放送サービスも充実化していった。カラーテレビの放送は、一九六四年のNHKによる放送を皮切りに広がっていった。また、一九七八年の音声多重放送、八三年の文字多重放送のサービスなど、その他のサービスも広がっていった。カラーテレビ放送に次ぐテレビ放送の大きな変化が衛星放送の開始であろう。NHK札幌放送局でも道内各地でのデータ収集などを進めていったが、その後試験放送を経て、一九八九年に本放送が開始された。資料40では本放送直前の状況を確認できる。北海道のIT産業では、札幌を中心に、ITの基礎技術から応用技術、ソフト、ハードといった幅広い分野で、相対的に高い技術力とコストパフォーマンスを有しながらも、有力メーカーから独立した関係にある企業の集積が見られた。サッポロバレーと称されたその企業群は、新陳代謝を繰り返しながらも、二〇〇〇(平成一二)年頃には、約三〇〇社のIT企業を擁し、その売上高合計は約二、〇〇〇億円に達していた。そのサッポロバレーの源になったのが、青木由直北海道大学工学部教授(当時)主宰の北海道マイクロコンピュータ研究会とされる。マイコンの可能性の大きさを感じた青木氏によって一九七六年に結成された同研究会には、北大の学生以外にも多くの若手が出入りし、そこからBUGやハドソンなどのIT企業を誕生あるいは成長させる多数の人材が輩出されていった。資料41は、同研究会の発行していた『μコンピュータの研究』一号に寄せられた青木氏の寄稿であり、発刊当時の状況を伺うことができる。更に、青木氏が提唱した、IT企業の集積構想(札幌ベンチャーランド構想)をもとに、札幌市は情報産業振興を図り、情報産業に特化した工業団地の建設を進めていった。資料42にあるように、札幌市はIT化に対応したエレク第四節 IT産業の展開445解 説
元のページ ../index.html#459