北海道現代史 資料編2(産業・経済)
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より学識経験者を集めて、北海道総合開発委員会を設置しました。本委員会が過去十カ年間に如何なる活動をしたかに就いては、他に詳述される筈でありますから、一括これを省略することゝし、こゝには計画の根本方針に就いて一言致します。夫れは先ず北海道庁の時代に入つてからの長期拓殖計画に就てであります。即ちその一は明治三十三年制定の拓殖計画であり、その二は明治四十二年の所謂第一期拓殖十五年計画であり、その三は大正十五年の第二期拓殖二十年計画であります。これらの三計画はその名の示す通り拓地殖民の計画であつて、主として府県より移民を招来して、本道未開の天然資源を開発しようとしたものであります。然るに戦後の総合開発計画に於ては北海道に於ける各種資源の開発とその高度の利用とに重きを置いて独り第一次産業を開発せしめるばかりでなく、更にそれを基礎として第二次及び第三次の産業をも伸展せしむるよう立案しました。私共の計画は又北海道庁初期の拓殖計画が物的資源中心策であつたのとは異なり、道民の生活文化の向上確立に特に重きを置き、文化厚生等に関する計画も樹てたものであります。これは本道の総合開発事業の始まりも人であり又その終局の目的も人であると信じたからであります。衆知の通り、ドイツの殖民事業は欧州列国に比べてかに遅れビスマークの時代に始まりました。宰相は食糧及び製造原料の供給地として、母国に於て生産する物資の需要地として又過剰なる母国人口の移住地として、植民地の必要を認め、これが建設と開発とに大に力を尽したものであります。然るにビスマーク時代に於ても又その後も永い間ドイツ国及び国民の撓まない努力にも抱(わらずドイツ植民事業は予期した通りの成果を上げることが出来ませんでした。けれども今世紀の始め銀行頭取、デルンフルヒ博士が植民局長となり、のち、一九〇七年、植民省が新設せらるゝや拔擢されて植民大臣となると、彼は植民地の宝は植物や動物や、鉱物のような物質的資源ではなく、実51      ママ)第1節 地域開発

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