行形態がとられた。また一九八〇年代、国鉄の赤字ローカル線廃止が進行する中で、バスは鉄路の代替交通機関としても地域輸送を担うこととなった。他方、北海道観光ブームの中での貸切観光バス事業の展開、新千歳空港への空港連絡バスの沿革についても述べられている。戦前から存在していたが、戦後一九四六年より地質調査が始まり、五三年には鉄道敷設法予定線となった。一九五四年に起こった洞爺丸遭難事故により青函トンネル建設への気運が高まり、一〇年後の六四年に北海道側の吉岡斜坑から掘削工事が開始された。一九七六年の異常出水などの困難を経て貫通し、国鉄分割民営化によりJR北海道が発足した翌年、八八年三月一三日より営業を開始した。また同日に青函連絡船は八〇年の歴史に幕を下ろした。青函トンネルの開業により旅客の乗り換え、貨車の航送が不要になることで、輸送時間は大幅に短縮され、上野と札幌を直結する寝台特急北斗星の運行も始まった。しかし在来線での利用者増は頭打ちで開業年以降は減少傾向なのに対し、青函トンネルの規格は新幹線仕様で設計されたために施設維持に多大の費用負担が生じ、青函トンネルを通る北海道新幹線の開通が次の課題となった。青森間)や北陸新幹線(東京―大阪間)、九州新幹線(福岡―鹿児島間)、九州新幹線(福岡―長崎間)とともに一九七三年一一月に整備新幹線五路線として整備計画が決定された。しかしながら国鉄の経営悪化により、一九八二年には臨時行政調査会答申に沿って整備新幹線計画は当面見合わせとなった。その後一九八七年に建設凍結は解除となったものの、盛岡―青森間の東北新幹線は建設費削減のためフル規格(新幹線規格・標準軌の線路幅)は一部区間(沼宮内―八戸)のみとして、他をミニ新幹線方式(狭軌の在来線に標準軌線路を加えることで新幹線の直通化を図るもの)として建設費削減を図る形で着工された。ただし一九八八年の政府・与党申合せでは、五年後(九三年度)の基資料38は青函トンネルの開業までの経緯と開業時の状況が記されている。北海道と本州を結ぶ青函トンネル構想は資料39は北海道新幹線建設促進期成会による要望書である。北海道新幹線(青森―札幌間)は東北新幹線(盛岡―650第7章 建設業・交通【交通】
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