北海道現代史 資料編2(産業・経済)
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に達し、二十六日夜半は北海道東北洋上に去るものと予報されていた。(二十六日東京朝日新聞夕刊)青函連絡船の運航が乱れだしたのは、二十六日午後になつてからで、五四便、一二〇二便、六便の欠航手配がとられ、遅れ四便として、洞爺丸は十八時半すぎに函館を出航することになつた。その後、北海道との通信回線が不良となり、二十三時頃本庁に洞爺丸は坐礁したらしいが詳細は不明との連絡があり、ラジオ東京のニュースも二十四時にその旨を報道した。次いで二十七日一時半頃に、青函局から、洞爺丸は坐礁後転覆し、その他貨物船数隻が沈没又は相当の被害をうけ、大雪丸も破損したという連絡が本庁に達した。この報告により本庁には総裁をはじめ最高幹部が直ちに登庁、緊急善後策の協議が開始されたのである。事故の内容や現地の状況が次第に分明してくるにつれて、さしあたりの措置として、輸送の制限を行う必要が強くなつたので、二十七日未明に、青森以遠行の旅客及び荷物の取扱を一時中止する指令をだした。二十七日には青森側にいた羊蹄丸が上下便一往復と、十二青函が上り便として運航したのみであつた。その後、二十八日からは残存船舶をフルに運航することによつて、列車との接続等が不十分な点さえ無視すれば、終日片道三二〇〇名をこす輸送力の設定が可能になつたので、二十八日からは、旅客の制限は解除した。しかし荷物関係については、航送荷物車の減少によつて輸送力が極度に不足することが明らかなので、大幅な制限を行い、手荷物は旅客一名について一個とし、小荷物は新聞紙、新聞原稿、救護材料、映画用フイルム及び管理局長の特に承認する物品に限つて受託する手配をとつた。このように旅客の制限を解除はしたものの、列車と連二   る船便も多いダイヤとならざるをえなかつた。そこで、絡船との接続は悪く、旅客の利用しにくい時間に運航す事故による船舶の不足を補うため、下関に繋船中の徳寿丸を急いで廻航し、十月一日に青函に就航させることとし、更に若干の被害をうけた大雪丸の修理を急いで、十693第1節 復興と輸送

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