北海道現代史 資料編2(産業・経済)
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定山渓鉄道が廃止された。大正七(一九一八)年、蒸気機関車で開業、昭和四年に本道初の高速度電鉄に生まれ変わった定鉄は、温泉客と豊羽鉱山の鉱石を運び、戦後は真駒内の米軍基地への貨物輸送で活躍したが、昭和三八年、国道二三〇号線札幌―定山渓間が完全舗装されてからはバスへの比重が高まり、豊羽鉱山も全面的にトラック輸送に切り替え、さらに四二年、札幌市の地下鉄真駒内乗り入れ構想決定により、軌道からの撤退を決断せざるを得なかった。昭和四四年四月に開かれた定山渓鉄道株式会社臨時株主総会は、代行バス計画として「現在鉄道は一日一九往復、輸送人員はラッシュ時で約一八〇〇人、閑散時で約一二〇〇人、計三〇〇〇人だが、代行バスは三八往復で消化でき、沿線住民はかえって便利になる」との説明があって、五〇年に及ぶ鉄路の廃止を決め、バスが主力となることを認めたのであった。軌道事業の悪化は国鉄の場合さらに深刻であった。ローカル線の不振と、トラックに押された貨物輸送の衰退などで、昭和三九年から国鉄は全体で赤字になっていたが、昭和五〇年代初めころから赤字ローカル線問題が表面化した。五五年に国鉄再建法が成立し、輸送密度や代替交通機関の有無を基準に、存続と廃止の線引きがなされ、道内で一次、二次合わせて二二線区、総延長一四五六・四㎞が特定地方交通線として廃止対象となった。昭和五八年には全国のトップを切って白糠線が廃止になったのをはじめ、地元が「日本一の赤字線」を逆手に売り出して存続を図った美幸線など八線区が六〇年九月までに地域のバスに転換された。   昭和六一年、ついに国鉄の分割民営化が決まり、翌年四月、一一五年の歴史に幕を下ろして新生JRが誕生した。JR北海道に継承された幌内、松前、歌志内線は六三年四月までにバスに置き換えられ、いわゆる「長大四線」も、第三セクター経営の「ちほく高原鉄道」として残った池北線を除き、標津線、名寄線、天北線は平成元年四月で鉄路を閉じた。さらに平成七年九月には特定地方交通線とは別に深名線が廃止となり、ここではJR自741第4節 進む高速化と赤字路線問題

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