北海道現代史 資料編2(産業・経済)
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行われた。特に戦後以降の増産時期には、GHQなどによる技術指導も行われ、坑内の機械化が進められた。また、炭鉱の斜陽期には合理化策の一環として、各炭鉱で効率の高い生産技術が積極的に取り入れられるようになった。る。戦後、各炭鉱ではこぞって水力採炭の試験的な導入が行われたが、炭鉱の閉山まで実用化面での実績を挙げたのは、三井砂川炭鉱だけであった。この技術はソビエト連邦が開発したもので、炭鉱の条件に合わせて改良が行われている。海道内の高等学校採鉱科は、戦前から札幌工業、夕張工業、美唄工業などに設置され、戦後の増産時期には一一校を数えていた。道内高校の採鉱科は主に金属鉱山ではなく、地域性の強い石炭鉱山に特化した技術指導が行われていた。この他にも大学では、北海道大学、室蘭工業大学の工学部に採鉱学科が置かれていた。資料11②は、炭鉱の労働者不足に対応して、炭鉱が独自に「鉱業学校」を設置して鉱員養成教育を行っていた当時の、北炭が設けた「北炭高等鉱業学校」の学校案内である。道内では、北炭以外にも住友奔別、住友赤平、三井芦別、太平洋炭礦などで、それぞれ独自の鉱員養成教育が行われていた。石炭産業は、他の産業と比べて労働災害の発生率の高さは抜きん出ていた。地底という労働環境と地質による条件などから、落盤(崩落)事故やメタンガスの爆発、地圧による突出などの災害が頻発し、加えて「じん肺」「珪肺」など、経年の労働で発症する鉱山特有の職業病も数多く発生している。資料10は、一九七七(昭和五二)年当時の三井鉱山株式会社砂川鉱業所(三井砂川炭鉱)での水力採炭の事例であ資料11①は、炭鉱の中堅的な労働者を確保するために、道内の各工業高校に設置された採鉱科の沿革史である。北資料12①は、炭鉱の社内報の記事で、一九五四年八月に発生した釧路市の太平洋炭礦春採坑のガス爆発により、三炭鉱の災害と内包する課題757(2) 解 説    

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