九名が殉職した合同葬の様子を載せている。炭鉱災害の悲惨さが今に伝わってくる。資料12②は、その災害の原因究明のため、災害対策委員会がまとめた報告書である。札幌鉱山保安監督部や釧路地検の捜査など、この時の災害に対する見解と、責任の追及が示されている。時期、北炭夕張炭鉱(夕張新炭鉱)では、相次ぐ災害と出炭の低迷から企業の再建問題に直面していた。苦境の中での炭鉱の存続に向けた数々の課題が、現場係員たちの率直な声として取り上げられている。特に労働意欲の減失の本音や、保安関係での課題などは深刻な状況を示すものであった。この調査の二年後となる一九八一年一〇月、北炭夕張新炭鉱では九三名が犠牲となる大規模ガス突出災害が発生している。一九八〇年代以降は、道内に残されていた炭鉱と産炭地域にとって苦難の時期となった。一九八〇(昭和五五)年の北炭清水沢炭鉱、八二年の北炭夕張新炭鉱、八七年の北炭真谷地炭鉱(以上、夕張市)、八九年の北炭幌内炭鉱(三笠市)と伊藤炭鉱(栗沢町)と、雪崩を打つように相次いで閉山となった。道外でも九州にあった三菱高島炭鉱が一九八六年に閉山を迎えている。幌内炭鉱と高島炭鉱は、官営時代からの長い歴史を持つ炭鉱であった。一九九〇年代以降は、最後まで残されていた炭鉱が徐々に姿を消し、炭鉱のあった旧産炭地域自治体は、人口流出や失業者対策、税収の減少に苦しむこととなった。一九九〇年代から二〇〇〇年代初頭にかけては、道内はもとより国内の全ての炭鉱が消滅期を迎えている。一九九資料13は、北炭夕張炭鉱の職員組合が一九七九年に実施した、炭鉱職員のアンケートによる意識調査である。この炭鉱の終焉までの過程第三節 道内炭鉱の衰亡と産炭地域758(1) 第8章 鉱業・エネルギー【鉱業】
元のページ ../index.html#772