題となった。この議論は一九五四年から五五年にかけて北海道開発審議会において行われ、五六年には北海道開発公庫が設立される。資料6は、北海道側の企画部門に当たる北海道総合開発委員会事務局による初期の「構想」を示している。なお、翌一九五七年には北海道東北開発公庫に改組されている。に関する調査の一連の報告(経済構造研究資料としてガリ版刷りで刊行)の一つである。北海道金融の特徴が以下のように示されている。すなわち、当座預金の総体的不足性、金融機関の高金利性、預貯金の相対的不足性、産業別貸出の不均等性、中小金融機関の相対的優位性、産業資金の季節変動性である。北海道の金融に関する研究は少なく、一九六〇年頃の成果であるが、現在にも通じるものが多い。資料8は余市町に本店を置く北海信用金庫(現北海道信用金庫)による札幌進出の狙いを述べたものである。北海道においては都府県と異なり、一強である拓銀に続くのは地方銀行ではなく数も多く貯金残高でもかなりのシェアを持つ信金であった。北海信金はトップクラスの信金であり、一九六〇年代半ばに札幌進出を企図したが、見送りとなった。その後、各信金の札幌進出は一般的となった。一九九七年は、護送船団方式をとってきた日本の金融体制が金融ビックバンを控えて行方が定まらない中で、大規模金融機関が破綻するという激変の年となった。海外でもアジア通貨危機が発生しており、日本の金融危機にも連動していた。証券会社の老舗である山一證券の自主廃業は衝撃的であったが、その一週間前の一一月一七日、最下位とはいえ二〇ある都市銀行の一つ拓銀の破綻はその後の金融政策にも大きな影響を与えた。もちろん、北海道にとって資料7は北海道開発庁が一九五七から五九年度に財団法人統計研究会に委託した「北海道開発の国民経済的意義」北海道金融の特質とその地位第二節 北海道拓殖銀行の破綻とその影響868第9章 金融・観光・サービス業【金融】 (2)
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