きたものです。しかし、あとでできた全観連の要請もあって道支部を設けねばならなかったが、本道では独自の性格を持つ道観連が必要であり、あくまでも道観連は道観連ということで、支部の看板と二枚かけたはずです。内田 そういえば、道観連をつくるときも皆そう言ってましたね。「中央に支配されない、いいものをつくろう」と。金 それで、結成の準備はすべて交通公社の皆さんにやってもらいました。内田 規約づくりや予算のことなど、みんな私どもでやりました。規約の草案は鈴木課長や同じ課の氏本さんらと相談してつくったのだが、実に簡単なものでしたね。金 とにかく「規則に縛られる面倒なものはつくるな、規約はできるだけ簡単に」というのが皆の意見だった。内田 当初は会員も少なく、札幌、定山渓、洞爺、登別、阿寒、層雲峡などの観光協会、それに道の商工、林務、土木の各部と、札鉄旅客課、交通公社ぐらいでしたでしょうか。三浦 いたのでは。内田 にはよく集まりましたね。たしか会場は札幌市役所だったと記憶していますが。清水 金 はほとんど進駐軍に接収されていましたからね。☆設立総会は、四月二五日午後一時から札幌市役所で開かれ、規約審議のあと事業計画や収支予算などを決め、理事長に日本交通公社札幌支社長の後藤恒三郎氏が選任された。規約や初年度の事業計画、収支予算など、設立当時の記録は何ひとつ残されていないが、道観連の結成を報じた北海道新聞(四月二六日付)から、結成のねらいや当初計画した事業の内容などうかがうことができる。(三二ページ〈略〉)小樽の観光協会は終戦翌年の創立だから、入ってああ、小樽もそうでした。それにしても設立総会会場は札幌市役所だったのですか。当時は札幌グランドホテルはじめ、目ぼしい建物第1節 戦後観光振興の経緯 915
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