助をする計画。具体的な青写真はいま三教授と道観光課の間で練られているが、五月中旬ごろから移転を始めて、本格的な観光シーズンにはいる七月までには必ず間に合わせたい、としている。世界民族学会への間違った案内書に思ふ私は、昭和四十三年五月一日午前十一時頃、白老民俗資料(にて突然故河野広道博士の二世河野本道氏(東大大学院生)と語り合ふ機会に恵まれた。話題は、五月一日付毎日新聞に四段抜きの大見出しで館脱カ)森竹竹市『レラコラチ 遺稿集』一九七七年風のように 昭和四三年五月 森竹竹市掲載された「とんだアイヌ紹介 海外向けパンフレット」に就いてである。今も昔のままの生活―コノ一世紀ノズレ! 会などにしてもカンカンのこのセンセイショナルな記事を、当のウタリの本尊たる自分が初めて読んで、内心すこぶる穏かならぬものを感じたのである。事の起こりが白老であったからなおさらである。僅か四、五年前迄はタッタ二軒の個人が白老アイヌコタン―アイヌ酋長の名を恣にして見世物業を営み、兎角の批判を生んだので、町が斡旋に乗り出し、現在のポロト湖畔にその施設が移されたのである。その後、白老観光協会―白老観光コンサルタントKKが介在するとは云へ、実質的には町営観光事業として運営されつつある。併し、これは飽迄も古来の民族文化を紹介するのが目 的であって、苟もそれによって、民族が差別され、その自尊心を傷つけるがごとき作為は、人道上赦すべからざるものである。然らば、今回の問題発生の発端はどこにあったかと云国際人類学民族学会のウタリ協① 森竹竹市の論説から〈一九六八年〉北海道観光における〈アイヌ民族〉の扱われ方とこれに対する批判第4節 観光とアイヌ民族94732
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