司会 〔(菊野修治 から脱皮して新しい競馬が始まったころは、日本全体があらゆる面で混乱していた時期でした。その中で行われた進駐軍競馬の思い出を。内田 〔(靖夫 元道営競馬開催執務委員長〕 戦中、競馬が中断されていたころは、馬連(馬匹組合連合会)が軍用馬の鍛錬競走をやってたんです。その馬連を道庁が監督してた。で、戦後の二一年六月、進編者注)編者注)競馬の復興〈一九四六~六七年〉道新スポーツ『北の蹄音 十年史』一九八九年道新スポーツ編集長〕 戦前の競馬ホッカイドウ競馬四司会 内田 和田 〔(晴 編者注)駐軍司令部が道に競馬をやれと言ってきたわけです。それもアメリカ独立記念日の七月四日と指定して。ところが、馬連の高木君(清=のち大井競馬調教師)は東京に出張中でいない。準備期間も半月ぐらいしかないのに競馬場はタコツボ(防空ごう)だらけだし、馬だっていない。再開できるということで、大変喜んだと聞いていますが。―大変楽しくやれた―エエ、急きょ、高木君に帰ってこいと伝えたら、千載一遇のチャンスだ—と喜んで引き受けてくれました。それから進駐軍のブルドーザーで馬場のタコツボを埋めて、農家にやっちゃったアングロ・ノルマンの軍馬を五〇頭ぐらいと、日高にも行って二〇頭ぐらい集めました。その時、道庁の馬係が佐伯君だったんです。元道競馬事務所長〕 そのころ、私はまだ学生だったんですが、開催当日は競馬場にアルバイト【サービス業】第一節 娯楽業復興の契機〔四〇年をふり返って座談会〕 第1節 娯楽業復興の契機95533
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