に行きました。腕章つけて場内整理などやったんですが、売り上げの一〇円札をリュックにつめてたのを見ています。馬券売るのは初めてなのに、意外な形で盛り上がりを見せてましたね。でも、レースの方は、馬はよせ集めでまっすぐ走らないのもいるし、乗り役の方もGIも乗ってて、私の目には八百長やり放題みたいに映りましたけどね。内田 結局、馬連主催(開催は進駐軍、実質運営は馬連)の競馬は二回やったんですがね。あのころは金が封鎖されててみんな持っていないはずなのに、所長室は一〇円札の山ですよ。もともと法律はないわけだし、競馬はいいもんだ、もうかるもんだと、全国のあちこちで無法の進駐軍競馬が続発してました。騒ぎが起きたって競馬法違反にはならないんだから、(ファンを)なだめすかしてね。司会 そういう時代を経て、昭和二三年に新競馬法が公布されました。内田 農林省も公布を急いだんじゃないのかな。あまり和田 司会 谷川 〔(弘一郎 編者注)にも騒ぎが起きるもんだから。ようやく二三年の法律で、日本競馬会は国営に、馬連の競馬は公営競馬になった。北海道の場合も、地方競馬法ができたことによって、開催者は地方自治体に、開催場所も室蘭、帯広、旭川、岩見沢、小樽と決まったわけです。一番の悩みは馬が足りなかったことという話もありますが、当時の生産状況はどうだったんですか。―馬集めには苦心…―谷川牧場主、日高軽種馬農業協同組合副組合長〕 当時は私も子供でしたが、アングロ・ノルマンなどの農耕馬が春の畑おこしが終わったあと、進駐軍競馬に駆り出されていましたね。もともと、軽種馬を扱っていたのは日高でも三〇—四〇軒ぐらいだったんです。戦後、小岩井だとか下総とか、御料牧場が解散を命じられて、日高に馬を持ってきた。これがいまにつながっているんですね。ですから、進駐軍競馬は日本の競馬の復興と、日高の馬産にも 第9章 金融・観光・サービス業【サービス業】956
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