大きな役割を果たしたと思います。無法の中で苦肉の策、苦労をされてきた諸先輩に感謝しなければいけないでしょう。和田 どうやって馬を集めるかは、確かに大きな問題でした。集まってからどういう番組を組むか考えるんです。サラ、アラブという軽種は期待できない。農耕馬やかつて競馬に使っていた馬、そのうちばんえいの馬まで入ってきた。速歩馬が主体で、レースそのものも、キャンター〔(ゆったり歩く意〕しちゃいかんという、乗り方も判定も難しい、すぐ紛争の種になるような騎乗速歩をやってました。司会 世相を反映し、いろいろな混乱があったと聞いています。内田 混乱なら私にまかせてください。三〇年だったかな、函館で騎手が何人か警察に連行されてね。ファンは騒ぐし、大変だったんです。そもそも、本命が出遅れてケツから行ったわけですが、それでも追わずに引っ張ってる。審判は八百長と判定したら失格編者注)和田 にしなきゃいけないんだけど、そうするとまた問題がある。ファンは金を返せと言うが、法規上は戻せないんです。正当に走った馬には権利があるわけだし、いま取り調べ中である—と時間かせぎするしかなかった。そのうち、群衆のうしろから土地の顔役がもういい、早く次の競馬を始めろと言ってくれましてね。助かりました。ファンが騒ぐ材料はどこにでもありました。いまならビデオがあるし、パトロールでレースを追ってるけど、当時はなにもない。スタートも手旗だったし、ダク〔(速歩馬のこと〕馬は距離ハンデのレースだったから、馬場いっぱいに馬が散ってるわけです。うしろ向いてるのもいるし、一斉にスタートさせるのは至難の業だった。着順も人間の目で判定してた。ハナ差ぐらいで入線してくると、見る位置で違うんですね。だから、主催者はどこにでも目を光らせて、あらゆることに対応しなければならないという苦労がありました。編者注) 第1節 娯楽業復興の契機957
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