北海道現代史 資料編2(産業・経済)
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に記している。 「五輪本番の練習を兼ねた前年のプレ冬季オリンピックから札幌は、すでに本番のような慌ただしさになった。組織委員会はじめ旅行業者など関係者が続々札幌入りして、旅館など宿泊施設の確保に奔走し始め、一般の観光客も宿泊予約を申し込み始めた。国内宿泊センターは昭和四十六(一九七一)年四月一日から開設して活動を開始したが、六月頃には市内はもとより定山渓、支笏湖、登別温泉などの上級ホテルは団体客などの予約でほぼ満室の状況にあり、市内中級旅館も代表的なところはほとんど旅行業者ならびにオリンピック関係者に指定され、一般客の宿泊予約の余地は残されていない状態だった。わずかに中級以下の旅館に空室の余地が残されていたが、予約申込者の希望とマッチしないことが多く、予約の確定に苦労した。ちなみに予約申込者の多くは設備の完全に整った高級ホテルや旅館を望み、地域的には市内および定山渓など近郊が圧倒的だった。料金的には基本料四〇〇〇円以上が多数を占めた。九月後半になり、新聞やテレビなどのマスコミ報道を通じて市内の宿泊事情が知れ渡ったため、中級以下の旅館でもやむを得ず応ずる予約申込者もあらわれ始め、高級ホテルや旅館を望む団体客の申し込みは徐々に減少し始めた。それでも十二月頃には市内および定山渓の宿泊施設は一部小規模な旅館を除きほぼ九〇パーセント満室状況となり、大会本番が迫る一月は小樽、岩見沢、千歳などの近郊都市にも送客ぜざるを得ないと案じていたところ、十二月下旬から市内や定山渓のホテル、旅館でキャンセルが出始め、一月に入ると急増した。原因はドルショックの影響もむろんあるが、旅行業者の思惑よりもオリンピックツアーに参加する観光客の数が下回り、青田買的な旅館やホテルの確保の見込みに狂いが生じたことが主因のように感じられる。この現象は当センターにも影響を及ぼし、近郊都市への送客計画を変更して、キャンセルが出た市内および定山渓の旅館に配宿の重点を置き換えるようになった。第3節 札幌オリンピックと宿泊業   973

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