北海道現代史 資料編2(産業・経済)
989/1104

の一つであった。しかし、宿泊斡旋という角度から冬季五輪成功に貢献した組合および組合員にとって、この変化が極めて厳しい試練を呼ぶようになったことは、まことに歴史の皮肉であると言わざるを得ない。本州ホテルが札幌ヘ一挙に進出し、旅館経営を圧迫しだしたのである。すでに幾度も述べてきたとおり、札幌はオリンピックの開催が決定するまでは、国際観光ホテルとしてグランドホテル、ローヤルホテル、パークホテルの三軒が開業し、札幌旅館組合に加入する一〇〇軒前後の旅館と、その他の施設(六〇軒前後)が、互いのテリトリーをできるだけ侵食しないような形で営業を行い、棲み分けがなされていた。ところが、オリンピック開催が決定すると、これに標準を合わせたホテル建設、新設計画が次々と浮上。昭和四十六(一九七一)年には、札幌国際ホテル(九〇室)、ニューミヤコシホテル(一二七室)、札幌プリンスホテル(二三四室)、厚生年金会館ホテル(一二〇室)、札幌ステーションホテル(六五室)、ホテル丸新(七五室)、ホテルアポロ(六〇室)などが開業し、札幌全体の収容能力が一五%アップの一万九〇〇〇人に膨れ上がり、このバランスが一挙に崩れたのである。札幌オリンピック開催後もこの流れは止まらず、ジャンボ旅客機の就航(昭和四十五年)という「空の大量輸送時代」の幕開けも後押しする形となり、ホテル建設にはいっそう拍車がかかった。まさに空前のホテル建設ブームである。これに加えて、昭和四十九年は第一次オイルショックも起きて景気が急激に冷え込み、旅館経営はいっそう苦しさを増した。昭和五十年代に入ってもホテルラッシュは止まらず、      旅館業界は危機感をいっそう強めた。昭和五十四(一九七九)年にはホテルアルファサッポロ(一四七室)、札幌東急イン(四二二室)が着工(翌年オープン)した。これに加えて京王プラザホテル、ニューオータニなど日〈中略〉中小企業分野調整法で反対運動を検討第3節 札幌オリンピックと宿泊業975

元のページ  ../index.html#989

このブックを見る