の向上」を掲げたものの、一九七一年には早くも経営危機が顕在化した。再建委員会は問題の核心は理事会の放漫経営と教授会の機能不全にあったと指摘した。編纂した論集に収録された美土路達雄(当時、名寄女子短期大学学長)の「公立短期大学論」である。高等教育の運営の経験を持つことが地方自治の可能性を広げるとの論は、大学論の画期をなすものとして注目される。年の下関市立大学を最後に都道府県・政令市以外の公立大学新設を認めていなかった。そのため、釧路市は周辺町村とともに一部事務組合をつくり大学を設置するという途を選ぶことになる。この設置形態は、釧路公立大学が釧路管内全地域に立脚する大学であるという意識にもつながっている。文部省は私立大学整備費補助金の開始を契機として「高等教育計画」を策定した。この報告書は、高等教育の整備が遅れていた地域における大学誘致のための作文という一面があることは否めないものの、キャンパスに閉じた研究・教育機関とは異なる大学の意義を示している。告書は地域の中核都市としての機能の一環として高等教育を位置付けている。報告書が掲げた総合的な高等教育の整備と卒業生の地域への定着は、以後も課題とされていく。資料8は、公立大学・公立短期大学の存在意義を明確にするために、公立大学協会と公立短期大学協会が共同して資料9は、釧路公立大学の設置構想である。釧路市は単独で大学の設置者となることを構想したが、国は一九六二資料10は、北海道総合開発委員会による高等教育配置計画に関する報告の一部である。一九七六(昭和五一)年、資料11は、北海道開発庁による函館圏における高等教育の整備の方向についての検討結果を示したものである。報資料12は、稚内北星学園短期大学の開学までの間検討された学科等の構想の一つである。学校法人北星学園理事長第三節 高等教育の課題997 解 説
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