北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
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一九四六(昭和二一)年二月に静内町(現在の新ひだか町)で創立総会を開催した社団法人北海道アイヌ協会は、その定款の中で、「本会ハアイヌ民族ノ向上発展、福利厚生ヲ図ルヲ以テ其ノ目的トス」(第二条)と述べ、その目的を達成するための「事業」として六項目を掲げた(第四条)が、その筆頭が「教育ノ高度化」であった。このことは、既に竹ヶ原幸朗が指摘したとおり、「ウタリが文化民族としての世界的水準に達するため」には「子弟の教育」が重要であり、「将来は学界・実業界・政治界その他人間生活の各分野に於てウタリから一流人物が蔟出する様にしたい」との願い・意思が込められていた。(竹ヶ原幸朗「『北の光』解説」(『アイヌ史 会活動史編』北海道ウタリ協会、一九九四年)、引用資料は『昭和二十二年度事業計画並に昭和二十二年度収支予算書』北海道アイヌ協会。この強い思いの背後には、当時のアイヌ民族を取り巻いていた教育の現実の厳しさがあった。そこには様々な問題が折り重なっているが、あえて幾つかの要素に切り分けると次の諸点を挙げることができる。第一に、少なくない人々が置かれていた、生活条件そのものの厳しさである。例えば北海道民生部が一九六〇年八説   月付けで刊行した『不良環境地区対策の推進について』に収録されている「北海道旧土人集落地区の概況調査書」によると、道内五一地区、二〇、二五五人(「集落地区周辺の和人を含めた数字」とされる。和人を含めない人口は一七、二六七人)を対象とした調査の結果として、生活保護の受給率が一〇・八%にのぼるとし、この被保護率は、同時期の「全国平均の一・八%、全道平均の一・七%に比し数倍の高率である」と述べる。この厳しい生活条件が人々の修学、進学を強く制約したことは想像に難くない(『不良環境地区対策の推進について』は、第一部社会・文化の第四章に掲載、二四一頁参照)。同書が資料として依拠した『北海道旧土人集落地区の概況』(北海道民生部発行)は、小学校北海道アイヌ協会・北海道ウタリ協解 1023解 説

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