足がある。教科書等におけるアイヌ民族に関する記述の欠如や、歴史・文化におけるいわゆる単一民族的な、マジョリティ中心の社会観とでも言うべき状態は、本章で取り上げる時代を通して指摘され続けてきた。和子による、自身の活動の回想である。同じ時期のいわゆる教育研究集会等でアイヌ児童の教育実態に関する幾つかの報告が見られるが、アイヌ民族自らによる調査と報告は、管見の限りこの取組だけである。荒井は、当時根強かった人種主義的な観点から「学力の優劣」を論じる風潮を克服するために「悶々と苦しみ悩んだ」中で、アイヌ児童が多く学ぶ学校での「学力検査」に取り組み、生活環境の格差と周囲の偏見にこそ問題が所在するとの結論に到達した。この取組では、旭川のほか十勝の幕別町、日高の平取町、胆振の白老町の学校の協力を得ており、それぞれ、𠮷田菊太郎、貝澤善助、森竹竹市という、各地域で町議を務めるなどの活動に従事していた人々が調査の実現に協力している。これは、こうした偏見や生活環境の問題の打破が重要な課題だと考えていたのは荒井ひとりではなかったことを表すものであるが、裏返せば、こうした支援によることなしには調査そのものが困難だったであろうことを想像させ、荒井が置かれていた状況の厳しさを推察させる。(なお、『北海道現代史 業・経済)』の第九章第四節「観光とアイヌ民族」に森竹竹市の著述を掲載しているので参照されたい。)において「レクリエーション」として、「アイヌ踊」(おそらく伝統芸能の披露だろう)の「世話人」を務めたことを報じた記事である。この教育研究大会に限らず、全国規模の大会・集会が北海道で開催される際に、そのプログラムの中でアイヌ民族の伝統芸能が披露されることは、これ以前にも、そして現在も、しばしば見られることである。それは、参加者の理解や関心を深める契機になった例もあるだろうが、かえってアイヌ民族に対する一面的・表層的な認識が強まったり、「多数者が少数者を見る」という立ち位置の問題に無自覚なままだったりする問題を抱えてもい資料1は、戦後間もない一九四〇~五〇年代における、児童に対する偏見の打破を自ら目指した旭川の教員・荒井資料2は、資料1に登場する𠮷田菊太郎が、一九五二年に十勝地区で開催された第一回全国単級複式教育研究大会資料編2(産1025解 説
元のページ ../index.html#1041