その中で閉科を余儀なくされた工業科もあった。資料8は倶知安高校工業科の設置(一九六四年)から閉科(八八年)までの経緯が詳しく紹介されている。また、資料9のように学科の統合によって存続を図る努力もなされている。一九九○年代に入ると更に改革の要請は大きくなる。資料10は「国際化、情報化、サービス経済化」に対応した新たな職業教育のあり方への模索を垣間見ることができる。そのほかの職業教育機関として各種学校、専修学校がある。資料11は戦後初期の「女子教育と服飾各種学校」を回想したものである。専修学校が法制化されて以降、専修学校は主要となる職業教育の分野を変えながら、学校数や在学者数を増やすなど安定的に発展していく。職業訓練の主要な担い手である公共職業訓練校も他の教育機関との連携を模索しつつ発展してきた(資料12)。しかし一九八○年代に入ると工業高校同様大きな再編や閉科に見舞われている。資料13はピークに近い一九七二(昭和四七)年時点での職業訓練機関である。一方、雇用促進事業団立の職業訓練校の一部は職業訓練大学校として高等教育に対応している(資料14)。また、企業が自前で技能労働者を育成してきた企業内学校も同様であり、全国的にもその名を知られた新日本製鉄の新日鉄室蘭高等工業学校(資料15)も、日本製鋼所の日本製鋼所高等工業学校もそれぞれ一九七三年、八六年に閉校した。資料16と資料17は、日鋼高工閉校直前のカリキュラムと全盛期の悲願であった高体連参加の経緯について回想したものである。北海道は東北、四国、九州と並んで「道外就職」が多い地域の一つとして知られている。そうした状況の中で、教第二節 第三節 公共職業訓練と企業内学校就職・進路指導1062第2部 教育 第10章 職業教育・職業訓練・就職
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