ですが、まず、その町で一番大きな建物は大体、各種学校、洋裁学校とか、編み物学校でしたね。ですから、終戦後の何も産業のない時に、教育産業といいますか、そういうものが一番先に走り出したものが洋裁学校なんですが、地域で最初に生まれた、戦後経済が崩壊した中で生まれた産業が各種洋裁学校だった。もうひとつ、その服飾文化に多大の貢献したのも勿論、当然のことですが、もうひとつの大きな貢献は、中等教育の一端を担ったということもありますが、戦後になって、戦前殆ど女子の働く場所はなかったわけですが、それを戦後にわかに東京へ行って勉強したり、都会で勉強してそれぞれ親元へ帰って学校を開き、若い女性のリーダーが出来上って、非常に女性の経済力というか、勉強意欲というか、教育意欲というか、それから独立心、強いていて)ば婦人の地位向上、それに大きな自信をもたらし、又、実践したのが各種学校・洋裁学校ではないかという(ママ井上 谷内 ように考えます。確かにそうですね。本当にね。中学校そのものといえば、高等学校であるとか、女学校であるとか、中学校に入るというのは年齢とか何とか規制される面が多いでしょう。各種学校は年齢を問わず、教育上の規制がなくて、夜でも昼でも、それから又、夏だったら時期的の問題だけで勉強出来るという、何というのですか、本当に社会的に貢献するとかしないとかというより、自然に教養が高まったんではないかと思いますね。(北海道立図書館所蔵) 1078第2部 教育 第10章 職業教育・職業訓練・就職
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