既刊の『北海道教育史』等の集録資料に対し、本章では、各地での社会教育活動の動向や社会教育施設等での事業の実情を伝えるものに焦点化した。農山村の暮しや産業(農業、炭鉱業等)を反映したもの、そこでの生活や地域の課題に取り組むものを中心的に取り上げた。また住民が自らの居住する地域(郷土)の歩みを明治期以降の北海道「開拓」における人権抑圧の側面も含めて捉え返す活動は、民衆の学習運動として全国的にも注目されてきた取組である。公民館は、生活と産業の課題解決を見据え住民の学習と交流による民主的な社会づくりのために町村に設置される説 総合的な施設(文化・教養・娯楽・交流・産業振興・政治教育・青年教育)として全国的に設置が促された。北海道では、羽幌町公民館(一九四六(昭和二一)年一月一三日開館)、美唄市公民館(四六年九月一七日開館)、標茶村公民館(四七年四月一日開館)、函館市公民館(四七年五月三日開館)、美深町公民館(四七年五月一○日開館)と設置が広がった。資料1は、設置まもない公民館に数百人が集い、村内の問題を熱心に話し合った様子を伝えるものである。これは『月刊標茶』として公民館が一九四九年二月二四日に第一号を発行(村民に誌名を募集し、第三号より『標茶公民』と改名)したもので、村内各戸に無料配布された。その内容は教育関連にとどまらず、村内新聞であり村役場の広報誌としての機能も果たした。公民館は、一九五八年までに道内二三○市町村のうち一三七に計三八四館(分館及び併設施設を含む)が設置されている。他方、公民館設置を求めて住民が請願を行う動きも見られる。資料2は、相内村(現在の北見市)連合青年団に残されていた請願書で、婦人団体協議会と青年団体協議会が連名で公民館の早解 第一節 戦後初期の公民館活動1095解 説
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