北海道現代史 資料編3(社会・文化・教育)
1158/1232

に由来するものである、旨の話を聞きました。瀬戸瀬の囚人墓地は周知されていますので、以前から白滝遺跡の調査結果に関心をもつていた白滝グループは、丸瀬布郷研が以前より中央道路を研究していることを知り協力し、この機会に未知の囚人墓所探索に取り組む事になつた次第であります。二、発見までの経緯六月二十九日 白滝村史編さん室に中村友禧氏を訪れたさい村では囚人殉職者の慰霊の目的で、昭和四十一年に調査を行ない墓所跡が三ヶ所判明していること。このうち下白滝については、現場が確認されて七遺体を収骨し、共同墓地に移葬されていること。東区川向い、現〔人名E〕氏所有地内にも、開拓当時四十五本の卒塔婆があつたと伝えられているここの川向いは、現場が確認できず附近の土を共同墓地に収め合わせて供養していること。秋葉実は町史資料協力依頼を兼ねて、ープの野村豊治、石田様にこの事を伝えましたと同道し、東区川向いを調べましたが、卒塔婆はいうに及ばずそれらしいと位置さえ解らず、又降雨もともなつた為この日の調べは打切りました。その後〔人名F〕さん(現白滝駅前魚店)〔人名G〕某さん、〔人名H〕氏、〔人名I〕(旧姓〔人名J〕)さんに囚人墓所についての言い伝え、心当りを尋ねましたが具体的な位置は不明でした。三、発見の模様と     名K〕氏の話から幽仙橋附近についての調査を行ないましたが、こゝでは戦時中に堀ったという湧別川河岸の坑道以外、墓所遺跡は見当りませんでした。次に、丸瀬布町界、馬止め附近にも六、七柱の卒塔婆があつたと伝えられているが、それらしいという個所が解つていないこと等が判明したので同日勤務終了後になつて白滝グル連絡を受けた同グループは午後五時半頃早速秋葉実七月六日 白滝グループと丸瀬布郷研はまず、〔人(4) (3) (2) (1) (5) 1142第2部 教育 第11章 社会教育

元のページ  ../index.html#1158

このブックを見る