午后四時四十分でしたその四○~五○メートル下がわの河原に近い畑地は「こゝでは昔、三平皿等セトモノが出て、囚人飯場のあつたところだと聞いている」という場所も知らされました四、考証大正元年の殖民地区画図によりますとこの土地は白滝原野基線一七八番地の乙一、一四四二坪であって墓標はこの最東端と二二号線の西北端を結んだ個所のあたりに位置しております年代不詳(大正初年)白滝原野一万分の一図では、該地は土地台帳七三九番地であって〔人名P〕が貸付を受け、後〔人名Q〕の所有になったらしいことが記されておりますし、不在地になっていたのを戦后の農地解放により、〔人名E〕氏の所有になつたものと云はれて居りま〈中略〉 〔人名O〕氏は「二十何年か前の時もかなり古かったから明治のものと思ふ草葉におゝわれ雨露をしのいでいたのでこの一本が残っていたものだらう」との事でした五、中央道路の殉職者墓所ては、これまで一八六柱と云ふのが定説でしたが、丸瀬布郷研の調べによつて網走~野上附近で五二柱(ここまでは釧路集治監網走分監所属)野上~国境附近(この間は北海道集治監網走分監所属)で一八六柱計二三八柱であることがわかり六月に資料を付して支庁管内総合開発期成会に報告された外、北海道地方史研究会に論文が提出されて居ります発見された墓標は、明治二四年当時のものか、或いは前記〔人名P〕氏又は〔人名Q〕氏が供養のため再建立したのか不明です中央道路のうち網走~石北国境間の殉職者数についこのうち網走~野上間五二柱については、こゝ、か(3) 〔人名O〕さん談では、前の所有者は早くに離農 す(1) (2) (4) 1144第2部 教育 第11章 社会教育
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