しこと一、二本づゝ点在していたようですが、野上附近国境間についてみると現位置不明のものを含めたと云ふ伝えでは・瀬戸瀬=六七柱(遠軽町史)うち四六柱を収骨移葬・馬止め附近=六、七柱(白滝村誌)室)〔人名B〕談では七号駅逓附近にもあった・下白滝=七体白滝村で収骨移葬(白滝村史室 〔人名B〕談)・幽仙橋西北畔=数柱又は四、五柱位置不明(〔人名K〕、〔人名O〕、〔人名B〕談)・東区川向い=四五柱(白滝村史室)今回墓標確認以上合わせて一三○柱前後の概位置が判明したわけ 六、その他について〔人名O〕氏談ですが、残る六○柱近くの場所については、未だ不明のまゝになつております昔はこの二股のすぐ下手に橋がありその橋が落ちてからは少し下手のこの道(道型あり)の下に渡船が設けられ、中央道路はこゝを通つていたという(史カ七、結びたのがこの中央道路であり「囚人道路」の異名をもつて称されているように、囚人労働の代表的事例として歴史上有名なところがありますテ二重ノ刑罰ヲ科サレル可キカ」という世論が高まり、ついに明治二十七年以降囚人の土木工事就役が廃止されるに至つたことは、行刑史のうえでせめてもの幸いといわねばなりませんとして出された各分監文書や二五年の北海道集治監要覧等が、北海道の収監者は、殆んどが維新後における各乱の連座者並に為政者と思想を異にするだけの政治私が大正六年に来た時は、渡船は無く中央道路の橋は郵便局裏にあった幽仙橋はそのほとりにいくつかの囚人の墓があつたので、それに因んで命名されたと聞いている一粁当四名の殉職者を出しまさに囚人の血で築かれこの事が当時の国会でも問題となつて「囚人ハ果シましてや囚人とは云う条、明治二四年国会答弁資料(1) 1145(3) (2) 第6節 博物館と郷土史・民衆史に学ぶ活動
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