について何か随筆をと申されたが、私は昔から作文とか綴方と云えものはとても苦が手である。頭をかくのはいと易い事だが随筆などゝ云うことは益々不得手だ。でも何か書かない事にはおさまりがつきそうもない。そこで私の見た保母並に看護婦について一寸書いてみることにしよう。現在看護婦、保母、栄養士併せて十九名、昨年春頃まではあまり人物も揃わず、人は十人十色と申すから皆々同じ心のものばかりではないものだが、ある程度此の様な団体生活と云うものを理解して、あまり個人主義に走つてもらひたくないものである。乳児を扱う仕事は誰がごらんになつてもはでな仕事ではないと云うことは御存じと思う。それであるのにダンスをするやうな人がいては一寸仕事に支障を来すことがある。午後六時夜勤と交代になるのだが午後五時頃になると早、腰が落ち(かず時間の立つのがもどかしいと云つた様子が目に見える。初めは困つたものだと心を痛めたこともある。外出した場合門限は十時としているがどう着脱カ)かすると十一時になることもある。なぜなら勤務を済ませ御飯をたべそれから出て二本立てとか三本立ての映画を見に行つた場合、終りまでみて帰るとどうしても此の様な時間になるのがあたりまへ、それに地理的から云つてもこゝは西線でも終点近くで夜の電車は一度はづすと次が中々来ないので遂ひ三十分位おくれることになる。それについては私はあまり小言を云ひ度くない。と云うのは折角面白く見て帰つて来たのに、と思うからだ。これも毎日の事ならそんなに大目にみられないが月に一度か二度の事なのだから。これが二三年前の保母看護婦の状態であつた。それが近頃はだん 〲揃つて来た様に思われるので私も喜こんでいる次第。今では彼女等(私はこれから彼女等と云わせてもらう)は専ら修養に努めている。洋裁、和裁、華道と自己の将来の為めに……。良い傾向だと喜こんでいる。又中にはお琴、三味線などと粋な趣味を持つてすぐ近くで習つている者も三、四人、又部屋へ帰つてからはラジオを聴きなつぶよりと云つた様に皆の心も1157第1節 1950年代までの幼稚園・保育所の状況と乳児福祉の整備
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